生物の本能とは
- 生きること
- 子孫を残すこと
この2点に集約されます。
“生きること”は生命維持活動及び個体修復生成活動に必要なエネルギーを環境から取り込むことと排泄活動として不要なエネルギーを環境に還すことで営まれます。
植物でも動物でも、小さい虫でもすべての生物が行う根源的な単純な行動です。
“子孫を残すこと”は必ず訪れる死を超えて、種の保存と常に変わる環境に対応し、より良い種としてあるために行われるこれも単純な行動です。
生物の発生起源を考えた場合、これらの本能は膜組織、内臓(もしくは原子的な脳)にプログラミングされていて、無意識下でも常に活動の指針を与えてくれていると思われます。
生命とは極論をすれば、この2つのサイクルを愚直に回すことだけです。
一方で意識とは何だろう?
動物、特に人間は意識(精神)がもっとも発達した生物です。
意識は神経系を介して、欲求や環境の変化や内的な変化にいちいち反応し、生命活動に様々な変化をもたらします。
神経系の中枢は脳です。
人間は人によって同じ刺激であってもまったく異なる行動を起こしますし、生きるということの意味合いも人によって変化に富み、それぞれの人生が営まれています。
意識が発達した人間という種ほど、個体によって生き方が違う生命はない。
これが意識の働きでしょう。
本能も意識も生命の反応である以上、物質やエネルギーの代謝が起こります。
代謝が起こる為には体液(栄養素や酸素など)が供給される必要があり、血液は
- 本能(感性)活動の代謝→膜組織や内臓を中心に供給される
- 意識(精神)活動の代謝→脳(神経系)を中心に供給される
そして血流が集中する場所は感覚が鋭く活性化されます。
日本人が昔から身体の中心として求めてきた“臍下丹田”はまさに腹部の感覚であり、本能(感性)の座と考えられます。
自然の中で共生してきた民族である日本人(アジア人)は環境を敏感に感じ受け入れる能力に長けていると考えられています。
欧米人は臍下丹田のようなポイントではなく、体軸を中心としてきた(脊柱に沿うようなラインの感覚)と言われます。
これは本能の座を置きつつ、意識の座(脳)へより中心をシフトしていると考えられ、自然を巧みに支配し利用してきた民族の特徴ではないかとも考えられます。
現代の社会生活、特に東京などの都市では、環境自体が人間の意識(脳)で考えて造られた世界であり、全てが合理化、省力化、画一化、簡略化などのキーワードのもとに造られています。
仕事も生活も人との繋がりや本来の環境(生物多様性を前提とする)との繋がりが希薄になり、生きることから離れやすくなっていることで、意識(精神)の働きが優位になり、頭に血液が大量に送りこまれることで脳の感覚は鋭く活性化されて上に浮いてきやすい。
本能(感性)の要求は意識によって抑えられ、逆に意識の影響を神経系を通じて大きく受けることになります。
現代は精神的な病的状態やアンバランスを抱えて苦しんでいる方がとても多いです。本能(感性)的な感覚が意識(精神)によって増幅されるか、もしくは抑制されることで誘発されやすいのだと思われます。
本能(感性)へ働きかけは自律神経系・血液循環・内臓の活性化・膜組織の活性化・踵や骨盤への重力のかかり…などによって行うことが効果的です。
これらの要素は私たちの身体の中でも”生きる”という機能により直結した太古からある働きだからです。
感覚を下へ戻し、意識(精神)の世界へシフトしすぎないようにバランスを取ることで、生物としてより“生きる”ことに立ち返らせるということは整体が手助けできる可能性がある大きな要素です。
”生きる”ことに重要な機能の発生について
- 生命として独立→膜組織の形成(囲んで身体・内部環境ができる)
- 外部環境との物質の交換を行う→膜組織、特に内蔵が発達する
- 内蔵で血液を造る→血管系は内臓に由来。血液循環の大枠ができる
- この血液を造る巡らすための機能の集約→副交感神経が発達する